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【名城と事件】松前城 防備の手薄な背後から攻められ…わずか数時間で落城

 松前藩の石高は、表向きは1万石格の大名だが、蝦夷地(北海道)は稲作不適の地であり、本州との交易管理が藩の財政基盤であった。アイヌとの戦いも終息し、外部からの攻撃も想定されなかった。松前の地に簡単な防備の館(福山館)だけで、200年を平穏に過ごしていた。

 ところが、幕末になると状況が一変する。日本近海には外国船が来航するようになり、徳川幕府は海防強化の必要性に迫られる。特に、蝦夷地にはロシア船がたびたび姿を見せるようになる。松前藩はロシアの南下に備える最前線の警備を担うことになる。

 嘉永2(1849)年、幕府は北方警備を目的に、松前崇広(たかひろ)に新城の築城を命じる。

 築城計画の際、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(がぎゅうさん=函館山)に築城すべきだという意見もあった。だが、城下の商人が「城を移転すると松前港が寂れてしまう」と反論した。移転の予算が少ないこともあり、最終的には福山館を拡張する方法で落ち着く。工費の多くは、松前の商人の献金によって賄われた。

 松前城嘉永3(50)年、天守代用の3層3階の櫓を持つ、和式築城最後の城として、高崎藩から招いた兵学者、市川一学(いちがく)の縄張で完成する。土居や石土居には「折」や「歪」をうまく取り入れ、城門には隠郭などが造られた。さらに、複雑に屈曲した城壁と松前湾に面した砲台群(7基の砲台と25門の大砲)を備えた最新鋭の城郭であった。

ただ、松前城は本来の役目を果たすことなく、あっけなく落城する運命をたどる。

 明治元(1868)年11月5日、旧幕府の榎本武揚(えのもと・たけあき)を首領とする軍勢は、蝦夷地での独立政権樹立を目指して、渡島(おしま)半島の各地を制圧し、松前城を攻撃する。松前藩は防戦に努めたが、海への防備に主体を置いた縄張だったため、防備の手薄な背後から攻められ、わずか数時間で落城した。

 天守は幕末維新の戦役でも戦禍を逃れていたが、昭和24(1949)年、火災によって焼失する。現在の天守は昭和35(1960)年に再建されたものだ。 =次回は篠山城兵庫県篠山市

 【所在地】北海道松前郡松前町字松城144

 【交通アクセス】IR江差線木古内駅」から函館バスで約1時間半「松城」下車、徒歩約10分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒。陸上自衛隊栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学地方政治行政研究所附属防災教育研究センター副センター長(客員教授)を務める。著書に『戦国の城と59人の姫たち』(並木書房)、『日本の命運 歴史に学ぶ40の危機管理』(育鵬社)など。

http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20170219/dms1702191000004-n1.htm

zakzak2017年2月19日付記事より引用

松前城が造られた経緯を知ることができました。幕末期に外国船の来航を監視するために、幕府から新たに築城するように命ぜられ、天守代用の3層3階の櫓を持つ、和式築城最後の城として造られました。

YUKIにゃん